屁理屈なんか聞きたくない EUGENE展
最終日滑り込みでEUGENE展を見てきた。
過去の展覧会 | SHISEIDO GALLERY | 資生堂グループ企業情報サイト
Beyond good and evil,
make way toward the waste land.
善悪の荒野
評判は良かったんだけど、笑っちゃうくらいの厨二。こだわって無駄にスケールの大きい厨二。
展示スペースと合ってないというか、どっからどう見て欲しいのか難しい。無理やりギャラリーに押し込めてるからちゃんと見れない感じ。
Drowning; Model room for agriculture Revolution 3.0
奥にある絵。
素材は銅板。焼き入れや腐食の奥に、よく見ると部屋の風景がスクラッチされている。
Drowning; Model landscape for agriculture Revolution 3.0
こちらも銅板。白く塗って刻み込み、顔料を載せている。
これは綺麗ね。最小限の線で風景を、風の吹く草原をうまく表現してる。
Seriese of White Painting
実際にはこの写真の中のキャンバスが置かれていた。
街中に何も描かれないキャンバスをおいて、その不思議や何かを表現しているんだろうという邪推をする人々の様子や、キャンバスにアクションをする人々といった動きを作り出すインスタレーション、の残りカス。
ここに置かれてもねって感じ。
総じて、現代アートだなぁと思った。
相手に伝えたいということより、自分自分ってなる感じ。
頭でっかちで理屈こねくり回してとにかく権威づけしようとしているけど、アウトプットがしょーもない感じ。
そういうイマイチな方の現代アートだった。
前評判は良かったんだけどな。
急な坂道駆け上がったら 絶唱、横須賀ストーリー
横浜美術館には写真展示室があって、いつもここでいろんなタイプの展示をしている。
今回は横須賀の写真。
1976-77年といえばそれこそ山口百恵の「横須賀ストーリー」の頃。横浜、横須賀がオシャレスポットだった時代。私は生まれてないよ。
次の予定の時間は迫るし携帯の電源やばいから充電ケーブル買わなきゃだし、相当余裕がなかったのでざっと見ただけになってしまった。
湘南出身ではあるのですが、横須賀は割と陸の孤島感ある(失礼)からあまり行かないなぁ。全然土地感とかないです。神奈川県はエリアごとに結構独立してるので、横須賀人も湘南にはあまり馴染みがないと思う。それほど高くはないけどね。交通機関がね。
横須賀といえばスカジャン、海上自衛隊、そして米軍基地。
昔は今よりもっと米軍の影響が強かったのではないかと思う。異国情緒がすごい。
すっかり観光地化されて明るいイメージが私などにはあるのだが、こうして写真で見ると完全に外国のようだ。
といってももう戦後感はない時代のはずだけどねえ。
撮影スポットだそうです。結構あちこち回っている。
今と見比べて見たら感慨深いものがあるのだろうな。
シュールってなんですか 横浜美術館、「シュルレアリスムの美術と写真」
横浜美術館の収蔵品展に行ってきた。
横浜美術館コレクション展 2017年12月9日(土)-2018年3月4日(日)「全部みせます!シュールな作品 シュルレアリスムの美術と写真」 | 開催中の展覧会・予告 | 展覧会 | 横浜美術館
ここは収蔵品展は写真撮影可能だが、携帯でバシャバシャ撮ってるとうるさいって怒られるから気をつけろ!
寝坊してカメラ忘れたし、長居もできな買ったからとりあえず写真撮って後でゆっくり見ようと思ったんだよ…ごめんよ…
数えていないけれど、印象としてマン・レイ、マックス・エルンスト、ヴォルスが多かったかなと思う。ベルメールも多かった。
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ジョアン・ミロ 「女の頭部」1975年
これってシュルレアリスム(で今回統一しよう)なのだろうか?
「1. 上手である必要はない」と章番号を打った直後に、ミロ。
よりにもよって、ミロ。
嘘か真か、美術学校の入試で「余りにも下手すぎて逆に才能があるかもしれない」という理由で合格になったという噂の、ミロ。
含みがあるのだろうか。
例えばピカソとかキュビスムや非常に簡略化した絵で知られているが、若いころの秀作は驚くほどの緻密さなわけですよ。どんなエキセントリックな作風の画家でも、習作は普通に写実だったりするわけですよ。でも、ミロのそういう作品を見たことが全くない。
私は引き続き、「まじめに写生したミロの絵」の情報を募集しています。
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ルネ・マグリット「青春の泉」1957-58年
青春の泉、という題だけれど描かれているのは明らかに墓標。時刻は夕暮れ、描かれているものは全て無彩色です。墓標の荒い筆致から背後の赤が透けて重苦しい感じになっています。
描かれた文字、ROSEAUとはフランス語で「葦」です。といえばパスカルのパンセだよね。
「 人間は自然のうちで最も弱い葦の一茎にすぎない、だがそれは考える葦である」
この墓は誰か個人のものではなく人間の、むしろお前自身の墓なのだと言われているようだ。
60歳ごろの作品。もう青春の泉が枯れてしまった後なのだろうか。
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イヴ・タンギー「風のアルファベット」1944年
イヴっていうから女性かと思ったら男性だった。
ていうか、いくらなんでもダリっぽくない?モチーフとかは違うけど、タッチが完璧にダリじゃない?いいのか?てくらいじゃない?
ダリのような圧はなくどちらかというと沈痛な感じのする絵。飛行機やナイフが使われない部屋の家具のように埃除けをかぶっている。そういう風に見える。
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ロベルト・マッタ「コンポジション」1957-59年
コンポジションというとカンディンスキーやモンドリアンがパッと思いつくよね。音楽用語でもあり、どちらかというと明るく、リズミカルで楽しい感じのイメージを持っていたのだけど、この絵。
こんな攻撃的なコンポジション初めて見たwなんなん、行進曲でも聞いてるの?
すっごくいい絵というわけじゃないんだけど、なんか面白くなった。
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マン・レイすごく多いです。写真もあるし、オブジェもある。有名なガラスの涙とかもある。
その中で面白いなと思ったのを一つ。
ほうほうなるほど?このアイロン使ったらすごくスッとするだろうな。
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マックス・エルンスト「少女が見た湖の夢」1940年
枯れた木々の森のように見えて、無数の生き物が隠れている。この絵好きです。
これがエルンストの本来の絵柄なのかな?ておもうけど、物によって違いすぎてわかんないね。
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ヴォルス「無題」
写真すごくたくさんあった。ありすぎて困るくらいあった。
シュルレアリスムとしてしっかり作り込まれたもの、ソラリゼーション、そしてただ資料として作成され、それに価値を見出されたもの。
これらはそのうちのどれなのだろうか?
ヴァルス「植物」1947年
油絵好きだな。どう見ても何かのクリーチャーで植物じゃないけど好きだな。
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ハンス・ベルメール「人形」1935年
ベルメールがいっぱいあって珍しいなと思ったけど、どれを紹介するか迷った。
シュルレアリスムは当時の現代アートだし、反体制(特にベルメールの場合、反ナチスの退廃芸術だ)だったりアングラだったりでね。こう、いきなり見たらギョッとするような作品がね。多くてね。どう見てもSM写真とかさ。
見せて良いものか迷うよね。
ベルメールは好きです。球体関節人形の元祖と言っていい。人形者はみんなベルメールが好き。
だからこそ、現代人形作家はベルメールに囚われた人が多くて残念に思うことがある。全ての人形が退廃でなくてもいいじゃんねぇ。
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作品がすごく多いし、好きなタイプだから長くなってしまった。
しかし、今回のテーマである「シュルレアリスム」とはなんだろうか。技法というより製作時の姿勢が大事なような気がする。
ウジェーヌ・アジェ「サン=ジャック通りの角、パリ5区」1899年
ポスター美術華やかなりし頃、ロートレックのパリ。
ごく普通の街並みの写真に見える。
これがこの企画に展示されるのは、これがシュルレアリスムの枠組みに入れられているのは、撮影者の意図だろうか。受取手の感性だろうか。
シュルレアリスム芸術家のポートレートもたくさんあった。仲間内で作品を協力し、交換し、仲間同士で発展していったのだろう。どれが誰だかわかるだろうか?
作品のイメージと合ってるかな?と考えながら、お気に入りの作者の名前を探してみるのも楽しいものだ。
きらきらひかる 三瓶玲奈
オペラシティ所蔵品展2つ目。こちらは規模の小さいミニ展示。
project N 69 三瓶玲奈 MIKAME Reina|東京オペラシティ アートギャラリー
公式サイトに結構詳しく作品解説がある。
全体的に、すごく明るい。作品がじゃなくて、展示スペースが明るい。え、美術館ってこんなに明るくていいの?美術品が飾ってあるけど??てくらい明るい。
それも、太陽光がしっかり入ってくる明るさだ。一応UVカットガラスとかなんだろうけど、それでもいいのかな?って不安になる程度には明るい。
けど作品を見てるとその明るさがとても似合っていていいなと思う。
Park
公園の池を描いたものだそう。
Parkというタイトルを読んで、噴水かな?って思った。静かだけどすごくキラキラして、明るく爽やかな感じのする絵だ。
色違いが何枚かあった。(個人的にだが、同じ絵がいっぱいあるのは二匹目のドジョウ感がしてあまり好きではない)
光の距離
公式サイトによると、抽象画ではなく鉱物の反射光を描いた具象画とのこと。
こうして画像で見るとなるほどなーくらいだけど、実際に光が当たっていると絵の具の盛りや筆跡に太陽が反射してなかなかいい気分になる。
Untitled
この展示については小さなパンフ1つとハガキという、よくある個展セットが用意されていた。
オペラシティアートギャラリーは企画展が全然好みに合わないんだけど、時々は所蔵品展にきてもいいなと思った。
なんせ、こんだけ見て200円なんだもの。
まどろみの中へ 難波田龍起
韓国の抽象を見るついでに所蔵品展も見た。
入ってすぐにくれるパンフがカラーなのでまたびっくりだ。
めっちゃ豪華じゃん…所蔵品展だけだと200円とかまじかよ…大小あわせて69点とかいっぱいあるじゃん…
ついでにさらっと見ようってボリュームじゃなかったです。
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春の歌
初期の作品です。なんか、なんかどっかで見たことあるような、よくある抽象画のような。
ジョルジュ・ブラックっぽいね。
初期作品はこういう、ありがち感が強い。シャガールっぽいのとか。
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しかし、1980年頃を境に独自性が出てきてすごくきれい。
最初に見てうぉ!ってなったのがこれ。
古代の夢C
曖昧模糊な夢の世界の中で、打ち棄てられた城が遠くに見える。
眠れる森の美女のような印象。まっくらもりの歌みたいな。
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暁
こちらも燃えるようなくれないの中、浮かび上がるのは海にそびえたつ岩壁か、打ち棄てられた街並みか。
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なにが描かれているのかよくわからないのがいいと思う。
センチメンタルな印象画かもしれないけれど、自分だけのおとぎ話がその中に見て取れる。
こうして1枚1枚とじっくり向き合うのもいいけれど、長い壁にいくつもいくつも架けられているところで、歩きながら見るのがよい。
絵の中に何かが見えたような気がして、引き返してもさっきちらりと見えた何かはもう姿を消している。そういうシュミラクラを楽しみたい。
寒色でも温かい印象の色使いが多く、控え目で圧が薄いのもそういう見方に向いている。
あまり有名な作家ではないようだけれど、結構好きです。
200円くらいの薄い図録売ってたから買っちゃった。
求められる理解 韓国の抽象
東京オペラシティに、「単色のリズム 韓国の抽象」を見に行った。
日曜日は写真撮影可能ということで、もちろんカメラを担いで行ったよ。
どうでもいいけどカメラを「担ぐ」って慣用句、現代の小型カメラにはそぐわないなぁ。閑話休題。
入ってすぐにもらえるのがこの冊子。スタイリッシュ。
しかもフルカラー!びっくりした。え、ここ1200円しかしないのにこんな豪華でいいの?全然客入ってないけど??
静謐な作品が多いせいか、展示室には作品と作者名・作品名しか表示されていない。作者がどんな人なのか、作品はどうなのかといったことはこの冊子を読みながら鑑賞することになる。作者一人に対して見開き1ページ、略歴や解説が半分と1つの作品の写真が載っている。
こういうのいいねぇ。
先に文字情報が入ってくるとどうしてもそちらに引きずられてしまうから、まず好きに見て追加情報をもらうというのは特に抽象絵画にはありがたい。
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写真付き冊子があるなら別にカメラ持ってこなくてもよかったなぁと思ったけど、そんなこと無かった。全作品は載っていないし、今回の展示の特徴としてテクスチャが面白いものばかりだったから。
例えばこれ。
河錘賢 接合
解説にあるように、裏から絵の具を裏ごしする感じに押し出した作品だ。けどこの写真じゃわかんないよねぇ。
横からこうやってみると、結構厚みがあるのがわかる。
う~ん、このブツブツがかなり気持ち悪い。
押し出した絵の具を部分的に均して表面を作り上げている。
展示はこんな感じ。綺麗だね。
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権寧禹 無題
こちらは韓紙を切ったり重ねたり裏に何かを入れたりしている。
綺麗と気持ち悪いの間。これ、だめな人だめだろうなって写真を見ると思う。
実物はここまでコントラストを感じないからそれほどでもないんだけど。
薔薇の花みたいだなぁって思ったよ。
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尹亨根「Unber-Blue]
これ、すっごく韓国っぽい。
複数の色を重ねて滲ませて、まるで乾いた血のような色を作り出している。
この写真を見せたら2人が「恨みでも表してるの?」って聞いてきた。わからないでもないw
抽象画って結構お国柄が出る気がする。
ヨーロッパ系ならカラフルだし、日本ならなんか陰鬱としている。
韓国はこういう感じ。静謐で張り詰めた打ちっぱなしのコンクリートや麻布のような印象があると思う。
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朴栖甫「描法 No000212」
このシリーズ好きだ。表面に絵の具を厚く盛り上げ、ヘラ等で地模様を作っていく。
シャープな感じがいい。
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李禹煥 「線より」
メインビジュアルになっているもの。シンプルだけれど色がとてもきれい。
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崔恩景「Beyond the Colors #69」
フレスコ画のような色。この水色とても好きです。欲しいな。
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いろいろ見て面白かったけれど、綺麗で面白いなぁで終わってしまうよね。抽象画ってそうなりがち。
「世界の川の砂を使用することで民族の歴史を表現し…」みたいな作品もあったけれど、それって結局自己満足だよなと思った。
だって、それがどこの砂かってのは見ている人にはわからないから。
説明が必要なら、それは作品だけで完結していないってことじゃないかな。
気に入った「描法」シリーズとかも実験結果のようだ。その結果の完成系な感じがしないのだ。
ならば抽象の完成とは何なのか、自己満足で終わってはだめなのか、そもそも芸術ってのは自己満足なのではないか。
そういうことを考えながら見たりした。
自己満足への理解を求め出したらダサイ、かな。私の答えとしては。