人の金で美術館に行きたい+読

美術館に行った話とか猫の話とかします。美術館に呼んでほしい。あと濫読の記録。




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読書 百年の,≪泉≫……便器が芸術になる時

読書をしたよ。

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LIXILギャラリーに行った時に美術・建築関連の本がたくさんあるコーナーがあって。そこで気になった本を探して読んでみた。

2017年は、≪泉≫が誕生して100年です。皆でお祝いしましょう!
ま、なんと恥ずかしい言葉でしょう。恥ずかしすぎて、便器に顔を突っ込みたくなるほどです。

そんな一文から始まるこの本はとても面白かった。
2017年に京都で丸1年(!)やったというデュシャンの展示について、キュレーターとなった人たちが書いた原稿をまとめた本だ。いろんな人がいろんな観点から「泉」について語っていて、知らないことも多くてとても勉強になった。
オリジナルの写真は、合成写真という疑惑があるとか。京都にあるのはレディ・メイドではなくオーダーメイドだとか。そういう諸々は気になった人はこの本を読んで欲しい。もちろん美術の授業では習ったし、こないだの東京でやったデュシャン展で見はしたけれど、何も知らないんだなぁと思った。
極端な話、私この便器の向き勘違いしてたからね…サインがあるとこが上になるように使うんだねトイレでは。ほら、私こう見えてもプリンセスだから、男性用便器の正しい使い方とかわからんのよ。現在のとデザイン違いすぎるし。

 

しかし段組みに癖があって読みにくかったよ…。
本を回転させないと読めないページに小さい字で変な吹き出しの中に書かれた文章を一生懸命読んだ後、同じ文章が普通に後のページに印刷されていることに気付いた時には相当イラっとしたよ。そういう変なおしゃれさはいらない。

 

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 初代「泉」について書かれたパンフレット。美術の教科書に載ってるやつ。
この下の文章とかちゃんと読んだことなかったなと思って。

 

さて、なぜ「泉」100周年を祝うことが恥ずかしいのか。
それは、「泉」が「芸術とは何か」を問いかけるための爆弾だからだ。

 

この本の冒頭から、「お祝いなんて恥ずかしい!」という文章を読んでから、そしてデュシャンのことを知れば知るほど頭を離れないのは、バンクシーのことだ。

 はずかしっ!という気持ちも一緒によみがえってげんなりする。
ぶっちゃけ本物かどうか疑わしいし、アート・テロリストとでもいうべき体制批判の作品を見つけて喜ぶ体制側という構図もみっともないし、これ幸いと2020の服を着て宣伝に使う知事が我が地元の長かとおもうと情けないし、アートと落書きを勝手に区別する行政も最悪だし、もうこのニュースは一個も直視できるところがない。
美術館が臆面もなく「おめでとう泉!」とか言っちゃう感覚に近いと思う。

また、著者の一人が言っていた「デュシャンはカウンターの人だ」と言っていたのも、バンクシーに近いなぁと思った。

デュシャンは最初画家を志していたけれど、どうも絵だけではトップに上り詰められそうもないと判断してトリッキーなレディ・メイド達現代アートを作り出した。
ダリはピカソさえいなければ画家の王となれたけれど、同時代の彼を上回れないからセルフ・プロデュースを頑張った。
藤田嗣治は普通にしていてもパリに受け入れられないから、エキゾチック系に寄せてみた

そんな意見を読んでなるほどなと思った。バンクシーもカウンターとして、パフォーマーとしてああいう風にやっているのかな、と。
何よりも、それらは全体の流れが大事だというところが近い。
バンクシーの絵は、ぶっちゃけキャンバスに描かれたら芸術的価値はほぼないと思う。絵そのものの価値はろくにない。風刺として、体制への愚弄として発表されるロック……というよりなんかヒップホップ的スタイルこそがバンクシーを特別にしているものだ。それは絵だけを切り取って成立するものではない。

 (余談だけど、だから藤田を私はあんま好きじゃない。ダリは絵そのものもすごいけど、藤田は文脈を捨てた作品自体はいまいちだ)

 

「泉」の発表時、大スキャンダルとなり多くの報道がされたけれど、新聞等では「便器」という単語を使うことすらできなかったという。あまりにも破廉恥だという理由で。
1917年。アール・デコの時代ではあるけれど近代化の初期の初期だ。
ポール・ポワレがコルセットを使わない服を発表したのが1906年だという。イギリスのヴィクトリア朝は1901年までだ。
ほんの10年前まで、世の中の女性はコルセットを当たり前につけ、足首まできっちりとスカートで隠し、「Leg」という単語すら避けて「limb」と呼んでいたのだ、というと何となく雰囲気がつかめると思う。
アメリカは少しは進歩的なのだろうけれど、やはりそういう時代から抜け切れてはいないのだろうね。
そこに投げ込まれた便器。相当衝撃だっただろう。
でも、今の時代に「泉」をみても、当時ほどの衝撃はない。
そもそもデザインがクラシカルすぎて何これ?から入るし、便器なんですよと言われても既によくわからん芸術が爆発したものを山ほど眺めた後の私たちには「ほーん、そういうやーつね」程度の感想は起こらないからだ。
この作品は、彫刻ではないからだ。
一種のインスタレーションだからだ。
あの時代、あの空気の中で喧々諤々の議論を巻き起こしたことに価値があるからだ。
そこでアートの流れを変えた、という歴史の一座標としての価値こそが高いのだ。
「泉」は美術史における記念碑だ。記念碑が建っていることが重要なのであって、記念碑自体の価値は建っていることの意義より高くなることはない。

 

ここで便器は芸術なのだろうか?という話はこれ以上しない。
ぶっちゃけ語りつくされていると思うし、読んだ本の内容を詳しく語ること、あるいはあっさり要約してしまうことは作者に失礼だと思うから。
気になったら読むといい。面白いから。