大きさだけがすべてじゃないけれど:国立新美術館「ミュシャ展」スラヴ叙事詩
関東人は当然行ったことと思う。
あの、スラヴ叙事詩が20枚全部いっぺんに見れる。夢のような話だ。行くしかない。
もう去年からずっとわくわくして待ってたし、親族が貸し出しにクレームつけだしたときは本当にどうしてくれようかと思ったけれど、見れてよかった。本当に見れてよかった。
まだいっていない人は絶対に行ったほうがいい。カメラと、望遠鏡と、オンラインチケットを買っていくといい。
ミュシャ展 |オンラインチケット
チケットはマストだ。平日でも20分待ちとかになる。
最近の美術展はバンバン広告を打つから、開始から遅くなればなるほど混んでいく傾向がある。国立科学博物館の台北故宮博物院展あたりからその傾向が出始めたし、鳥獣戯画展の時もひどかった。
気になる展示は開始直後にさっさと行ってしまったほうがいいと思う。
さて、チケットを手に入場列に並び、会場に入ったらまず巨大なスラヴ叙事詩があるのでびっくりする。
普通こういう目玉作品って後半に持っていくんじゃないかなと思うから。でもいきなりのスラヴ叙事詩に圧倒され、それまでの混雑なんかどうでもよくなるからいいのかもしれない。
スラヴ叙事詩とは何かという話をここでわざわざしなくてもいいだろう。
あのアルフォンス・ミュシャが晩年ライフワークとして取り組んだ連作群だ。
構想段階、着手し出したころは世界的に民族意識の高まりが起こり、作品への期待も大きかった。けれど時間がかかり過ぎて完成したころにはそれを受け入れる時代が過去のものとなってしまい、長らく日の目を見なかった。
そういう風にとらえられている。そして、事実そうなのだろうとは思う。
ならばもっと早くに着手すべきだったのか?といえば、それは無理だろう。
単純に、これだけの巨大な作品を作成するだけの資金、環境、そして受け入れ先はかなりのビックネームでないと確保できない。
この作品を描くためにはまず押しも押されもせぬ巨匠にならないと環境的に無理だ。
そして絵画的な話をしたい。
率直に言って、この作品群は絵画的な「見せ場」がない絵が多い。
6番目、「東ローマ皇帝として体感するセルビア皇帝」などは特に、美しくはあるが全体的にぼんやりとし、この絵の見どころはここです!的なものが薄い。
画面中央の”セルビア皇帝“は背景と同化しているし、手前の謹啓人物群もそこだけ浮きだしたかのようで違和感が、唐突さがある。正直この1枚だけを取れば出来の良い芸術作品とは言えないだろう。それを連作の一部とすることで全体を通しての価値が出てくる。
技法的にはかなり近代的だ。
手前は線描で勢いのあるタッチを、奥は点描で溶け込むような空気を出している。
…奥に関しては、ごめん、カメラが充電切れで携帯では撮れなかった。
「イヴァンチツェの兄弟団学校」部分
黄緑や蛍光色などを多用して、浮かび上がるような効果を出している。この絵に限らず、「ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師」などもそうだ
「聖アトス山」
公式では「シゲットの対トルコ防衛」などがそうだとされていたが、こちらも相当浮世絵の影響が強い。
図録より、「クジューシュキでの集会」
画面のほとんどが背景という大胆さにも通じるものがある。
「ロシアの農奴制廃止」
ジャポネズムからの流れであるアールデコの帝王であるミュシャだからこそといえると思う。また、印象派や近代絵画の技法も取り入れられているのを感じる。
なにより、ここまで大胆な構図を自由に取り入れられるのは巨匠だからこそだ。
売り出し中の新人が、こんな冒険はとてもできないと思う。
この時代だからこそ、この時代になるまで描けなかった絵であると思うのだ。
構図的なことを言うと、先ほども書いたが非常に背景部分が多い。そして、タイトルとなる主要登場人物の影が薄い。
わかりやすいので図録から引用させてもらうが、「ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛」というこの絵、主役であるはずのシゲットは左のN1さんである。
小さい。いくらなんでも小さい。注釈がなかったらモラヴィア人でも気づくまい。
図録より「ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛」
故にこの絵の、この作品群の主役は表題の人物ではないのだ。
歴史上に名を残した著名人ではないのだ。
ならば誰なのかといえば、無名の市民である。
その時代時代を精いっぱいに生き、過去から未来へと民族の歴史を伝えていく市民たちなのだ。
「イヴァンチツェの兄弟団学校」部分
意図的に上下に分割された描画範囲から飛び越えて私たちに訴えかけてくる者。繰り返し現れる老人と若者というモチーフはそれを私たちに訴えかけてくるのだとと思う。
と全体の話はこれくらいにして。
悪い意味で気になったのはこの絵だなぁ。主題が。
娼館の娼婦達が悔い改めてそのまま修道院のシスターたちになった、という物語だけれども。
この時代の娼婦達に、好き好んで娼婦となったものがいるだろうか。
無理やり仕事をさせられ、娼婦として下げずまれ、そしてなお害悪だと断罪されて修道女に縛り付けられる。
まだ、自由市民となるならわかる。その足で自分の未来を決められるのなら。
そうでない以上、弱者に寄り添っていると言えるだろうかと考えてしまう。
図録より「クロムニェジーシュのヤン・ミリーチ」
小ネタとしては「スラヴ民族の賛歌」のこの部分。第1次世界大戦の戦勝国が解放したスラヴ民族と、世界の民族とのつながりを描いている。
この後ろの方にひっそりと立っている人は日本兵なんだろうか。だったらいいなぁ。
「スラヴ民族の賛歌」部分
スラヴ叙事詩以外は、定番作品が多い。
プラハ市民会館の壁画下絵が珍しいかな。普段日本で見れない画風、スラヴ叙事詩よりの画風だから見ていて面白い。同じ人物が描かれているのも楽しい。
また、大阪の堺市美術館からのレンタルが多い(ちなみにこの貸出期間中、堺市美術館はリフォーム中だ。賢い)
ことにここから貸し出された「ウミロフ・ミラー」は本当にぞくぞくするほど美しい。
鏡なので写真だと魅力が伝わらない。ぜひ現物を見てほしいと思う。
そうしてミュシャの世界に迷い込んだ自分と向き合ってほしいと思う。