デジタルと銀塩の違いってあるのかな ゼラチンシルバーセッション
富士フィルムスクエア2つ目、”ゼラチンシルバーセッション「GSS Photo Award」受賞者展”の話。
これで土日に見たのは全部かな。
同じ会場の”幕末明治の写真家が見た富士山 この世の桃源郷を求めて”は写真撮影不可だけど美術というよりは歴史。”葉っぱのある風景”は普通の写真って感じだった。失礼ながら。
ゼラチンシルバーというのは当然銀塩写真、いわゆるデジタルではない普通のカメラフィルムで撮った写真ということだ。デジタルと銀塩と、現代どちらが普通なのかということは再考の余地があるが。
私自身も写真は撮るし、2000年に初めてデジカメを手に入れる前は安物の銀塩ライカで撮影していた。けれど正直、「銀塩写真でしか表現できない」何かというのは浅学でわからない。芸術写真を撮ろうと思ったことが無いからかな。
そりゃデジカメ普及当初はプリントに耐えられるレベルじゃないおもちゃみたいなもんだったけれど、今ではプロもデジタルで撮影する時代だものねぇ。
「撮影結果がどうなっているかわからないワクワク」以外の魅力があるのだろうか。
あるからやっているんだろうなぁ。
でも正直、撮影結果を見てもわからないんだ……
ただ、この写真がめっちゃ美しいことはわかる。
荒れ野のような世界の中で、この布は何のためにここにいるのだろうか。目的を既に失った何かなのだろうか。
何かを撮ったわけではないが洗練された美しさがある。
これを撮影したときは当然何枚も撮りまくっただろうけれど、この完璧な一瞬を選び取るというのも難しい作業なんだろうな。
いま主流のペカペカしたプリント紙ではなく、ざらりとした紙に出されているのも作品にとても合っている。
嶋田 篤人さん「木偶の房」作品群の名前で、個別作品の名前はなかった。以下同様。
古びたドラム缶の並ぶ様。ディストピアSFみたい。
なんだろうね、灼熱の日差しのような、凍てついた乾いた日のような。
何がいいってうまく言えない。
大木を切り落として加工した、その名残。取り残されたものの美しさ。
これは、カラー写真で見てもそれほど心に残らないだろうなぁと思う。こういうものを切り取る力がすごいと思う。
池田 祐一 「風のはじまり」写真群。
元は農場の柵があったのか、ただ扉だけが残っている。よくここを見つけたなと思う。
叶野 千晶 「ラーゲルの記憶」
アウシュビッツの門、あまりに有名な「労働は人を自由にする」の文字…どうでもいいけど、このセリフ残業中に使う。すごく使う。
ただまぁ芸術の政治利用というのはちょっと慎重にやるべきだと思うんだな。
こういうすごく有名な、歴史的悲惨な事件のあった場所というのは、誰が見ても何かしら思うところがあるわけで。それを引き出して芸術!とするのはなぁと思う。それも含めて芸術なんです、というのならば少なくともそれは写真がメインではないんではないかと思う。
まぁきれいなんだけど、よく撮れているんだけど、ちょっとね。
今まで見た「自称芸術」の中で一番ひどい作品は、下手糞なお白州の模型に踏み絵を置いて、その踏み絵に「憲法9条」って書いたやつです。
都美のグループ展で見たけれど、全体の完成度と言い透けて見える作者のドヤ顔といい、本当にひどかった。
政治的主張がしたければデモでもどこかに立候補するでも、政治の場ですればいい。
いや、この写真がそうだっていうわけじゃないけど。
この写真は政治主張というより……中二病感?