人の金で美術館に行きたい+読

美術館に行った話とか猫の話とかします。美術館に呼んでほしい。あと濫読の記録。




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芸術の再現性について考える トーマス・ルフ

仕事から帰る時、通勤路にいつもカーテンを開けている家がある。夜なので中がよく見える。
部屋の壁に、トーマス・フルのポストカードが飾られている。ポートレイト、下のサムネに出てくる奴だ。
それを見るたびに私はルフの写真をカードにすることに何の意味があるのだろうかと考える。

 

thomasruff.jp

トーマス・ルフ展 | 東京国立近代美術館

以下写真はすべてトーマス・ルフ展」、東京国立近代美術館 作者トーマス・ルフより。
作品名は都度記載

 

芸術作品のポストカード化。それはすべての作品について意味がないといえばない。
撮影して印刷することで油絵の凹凸は消えるしどんなに頑張っても色彩は完ぺきに表現できない。彫刻等立体作品については言わずもがな。
それでも手頃な複製品としてポストカードを集めることは楽しいものだ。
ではなぜルフの写真作品だけをとってその意義を問うかと言えば、彼のこの作品は”大きいことに意味がある”からだ。

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 その作品というのがこれだ。

f:id:minnagi:20161002141026j:plain

 Portraits

一見ただ普通の写真に見えるだろう。そして、実際これには「普通の写真」であるために細心の努力が払われている。真正面から見た無表情の証明写真。ライティングも全く同一にし、すべてが同条件で撮影されるよう注意深く撮影されているのだ。
その意図としては、キャプションを読むとわかる。

f:id:minnagi:20161002141021j:plain

 この作品は大きい。とてつもなく大きい。
そして、この作品は「大きい写真を前にしたときの人々の反応」を主としたインスタレーション作品だ。写真自体ではなく、写真を含む空間を創造しているのだ。

 

そう考えると、この展示が現役大御所作家なのに写真撮影可能だった意味が理解できる。
写真を写真に撮ることへの困惑をも含めた作品なのだ。
それをポストカードにすることに、巨大化させることで与えた付加価値を取り除くことに、どういった意味があるのだろうか。それは、ただの複製作品ではなく、芸術性の削除ではないだろうか。

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 率直に言ってしまうと、トーマス・ルフが写真家であるという点には納得しかねる。
だって、彼はあるインタビューによると2003年から作品のためにカメラ撮影を行っていないというのだ。

トーマス・ルフ インタビュー 後編 | Thomas Ruff

このインタビューの中にあるjpgというのがこれだ。これもとても巨大な作品である。

f:id:minnagi:20161002143047j:plain
jpeg ny01

圧縮率の問題でこんなにカクカクなのではない。意図的に画素数を落とした上で引き伸ばしているのだ。
実際手と見比べればどのようなものだかわかるだろう。

f:id:minnagi:20161002143101j:plain

元の写真はネットから拾ってきたものだそうだ。そういう作品がいくつもある。
それは、彼の作品なのだろうか?元の撮影者の許可は撮っているのだろうか?こうしてルフの名前を付けて展示することによる利益は撮影者に還元されているのだろうか?
そうは思えないものがたくさんある。
これは、ルフにしか作成できないものだろうか。
これは、芸術作品だろうか。
圧縮されたものを引き延ばして芸術作品だと看板を付けたものを、私がこうしてもう一度写真に撮って圧縮することにはどのような意味があるのだろうか。

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 Starsという作品群も、ルフによる撮影ではない。
ヨーロッパ南天文台が撮影した1000枚以上のネガから、ルフがどれを使用し、どのように引き延ばすかを決定したものだという。
選定は、キュレーションは芸術活動だろうか。
でも選定が芸術ではないとしたら、現実世界を選定して切り取り固定化する撮影という作業もまた芸術ではないのだろうか。

f:id:minnagi:20161002150753j:plainStars

この作品はなめらかな光沢をもつくらい作品の前にガラスが立ちふさがるため、前に立って鑑賞しようとすると自分がこの中に取り込まれてしまうような感覚が合って非常に面白い。
このプリント用紙そのものよりも、写り込みをも含めた空間にこそ価値があるように感じる。

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 こちらは巨大ではない作品だ。(ガラス面へ移りこんだ人影で判断してほしい)(偏光レンズ買おうぜ)
ニュースペーパー・フォトという名前の通り、実際にドイツで発行された新聞や雑誌から写真を切り抜いたものを原寸の倍に引き延ばしたものだという。
見ての通り、クラーナハだ。この作品は誰が作者なのだろうか。
クラーナハだろうか。撮影した名もなき報道カメラマンだろうか。
ルフのしたことは選定と拡大だ。それを持って全ての栄誉を彼のものとするのだろうか。

f:id:minnagi:20161002142610j:plain
Newspaper photos

 

こちらなどなお困惑する。
上の写真はカールス・ブロスフェルトの作品だ。それをネガポジ反転させたのが下、トーマス・ルフの作品になる。
これはさすがに有名作品を基にしているから許可とっての作成だろうな。
現実にある小さな視点の転換を入れることで見える世界を大きく変えるというのは概念としてたまに見るものだけれど、これをどうとらえるべきなのだろうか。

f:id:minnagi:20161002160255j:plainカール・ブロスフェルト ヒエンソウ(写真集「芸術の原型」より)
また、面白いのがこちらの作品常設展にあったんだよね。にくいね。

f:id:minnagi:20161002142329j:plain
negatives

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 こちらの作品は「サイクロイド曲線を仮想3次元空間に走らせた結果を2次元に変換した後真にぴゅレーションを施してカンヴァス上に出力」したものだそうだ。
簡単に言うと「コンピュータでシミュレーションした結果をゆがめて出力」だから何のために演算したのかわからない。
美しければいい?ならば単純に美しい曲線を描けばよいだろう。なんのためにわざわざ演算を行ったのだろうか。とか考えてしまうのは私がITドカタだからか。

f:id:minnagi:20161002144338j:plain
zycles

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 とまあいろいろ書いているとちょっと苦言っぽい感じになるけれど、去年のこの展示はすごく面白かった。
写真を加工したものを写真に撮るという複構造化された自分の行動自体が面白くて、ルフはこの奇妙なゆがみこそを作品としてこの空間に作り上げたのだろう、と考えているうちにテンション変に上がってめっちゃハイになっていた。

f:id:minnagi:20161002140307j:plain作品単体と、それを取り巻く空間と、そのどちらが芸術なのだろうか。両方なのだろうか。
少なくともこの展示でのルフの作品はすべて、空間をそぎ落としてしまっては芸術性を保てないものであったように私は思う。