人の金で美術館に行きたい+読

美術館に行った話とか猫の話とかします。美術館に呼んでほしい。あと濫読の記録。




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【感想文】三つの物語 フローベール

書籍データ

  • タイトル:三つの物語
  • 作者:フローベール
  • 訳者: 谷口亜沙子
  • お勧め度:★★★★

f:id:minnagi:20190515164513j:image

収録タイトル

素朴な人

無学で素朴であるがゆえに純粋な魂を持つ召使女、フェリシテ。
孤独な身の上の彼女の愛と喪失の人生

うーん、好きじゃない。とても丁寧にフェリシテの人生が描かれていて、美しい物語ではあるし愛情を持って扱われているのは読みとれるんだけど、それでも好きじゃない。
そもそもの大前提である「愚か故の純粋さ」ってのがさ、なんというか「貧しい地域の子供の目はみんなキラキラしている」みたいな、驕りっぷりがすごい。上から目線というか、「私たち高等民からは失われてしまった真の魂」みたいな。
学が無いのを揶揄するようなところがなぁ。好きになれない。
あと、単純に喪失の物語なので暗い。いや、暗い話は嫌いってわけじゃないんだけどなぁ。私を離さないでとか好きだし。
ボヴァリー婦人から比べると本当に作者の人格がまるくなったなと思う。ただ、好みではない。

聖ジュリアン伝

舞台は中世ヨーロッパ。領主の息子として生まれたジュリアンの両親は「息子は皇帝の一族となり、聖人になるだろう」と予言を受ける。
狩りの名手として成長したジュリアンは、ある日狩りの最中、おびただしい量の動物を殺戮した結果「いつの日かお前は、お前の父母を殺めるだろう」という呪いを受ける。

すごく面白かった。
冷たく美しい文章、スリリングな展開。古典聖人伝説を踏襲しつつも現代的な表現。
特に森の中で狩りをするジュリアンの恐ろしさにはぞくぞくする。
予言が、そして呪いが成就してゆく様の恐ろしさと絶望。喜びからの急展開と、心が休まらないヒリヒリする話です。

オディプス王とかもだけど、予言の成就を避けるにはどうしたらいいのだろうね。どうすることもできないのかな。予言を避けようとあがかないで、現状を受け入れればよいのだろうか。オディプスは家を出なければよかったんじゃん?でもそれを避けられないことも含めての予言なのだろうなぁ。

一応原作はヤコブス・デ・ウォラギネの「黄金伝説」。一応読んだけどさすがにぼんやりとしか覚えてないな…聖人がすごい数出てくるので一応メモ取りながら読んでたのだけれど、なぜかこの人だけメモが抜けてた。もう一度読むか。

ロディア

西暦30年ごろの中東、ローマ帝国の属国を治めるヘロデ・アンティパス(所謂ヘロデ王)の王宮にはヨナカーン(洗礼者ヨハネ)が囚われていた。
ヘロデ王の誕生日の大宴会が行われる王宮には、ローマ帝国の提督やユダヤ人など様々な人間が押し寄せる。華やかな宴席の中、高まる政治的緊張を和らげるために舞を披露した少女が褒美として望むものは。

サロメの物語です。
サロメの話なのにタイトルがヘロディアスというサロメの母親の名前なのは珍しい。前々から機会をとらえては何度も主張しているのですが、サロメちゃんは悪くないんだ!お母さんに命令されただけなんだ!
というわけでタイトル通りお母さん=ヘロディアスの物語と思いきや、主役はヘロデです。これも珍しい。
また、舞台がお誕生日会のパーティ会場なので、とても華やかな、まるでカーニバルのようなにぎやかさが伝わってきます。珍しいですね。

さて、何を珍しい珍しいと繰り返しているかというと、サロメにはいわば定型文があるよという話です。

元々は1862年フローベールサランボーという小説

【感想文】フローベール - 人の金で美術館に行きたい+読

そしてそれに感銘を受けて1876年ギュスターヴ・モローの描いた「出現」という絵画。これはサランボーではなくサロメを描いたものです。

ファム・ファタルの主役は男達 ギュスターヴ・モロー展 パナソニック汐留美術館 4/8 - 人の金で美術館に行きたい+読

この絵が芸術界に与えた衝撃は非常に大きく、1884年ユイスマンス「さかしま」などにも紹介されています。

【感想文】さかしま - 人の金で美術館に行きたい+読

そして1891年生み出されるのが、 かの有名なオスカー・ワイルドサロメ

(私の読んだ版ではないです)

これがのちの文化・芸術界に非常に大きな、不可逆な影響を与えます。もう「サロメと言えばこう」というイメージが確立されてしまうんですね。
それは稀代の悪女、男を破滅させる妖艶な魅力を持った美女、ファム・ファタルとしてのイメージです。
いちばん有名で影響力があったのはもちろんワイルドの「サロメ」ですが、やはりこの「サロメファム・ファタル」というイメージを決定づけたのはモロー「出現」でしょう。

こういった流れの中でこの「ヘロディアス」の出版が何年かというと1877年なので、「出現」の翌年です。
「出現」、見ていたのかなぁ。見てないっぽい感じだなぁ。


元ネタは新約聖書に書かれた洗礼者ヨハネの物語です。

サロメ (ヘロディアの娘) - Wikipedia

この短い物語の中で脇役として登場したサロメは19世紀末に大きく変貌するわけですが、この「ヘロディアス」の中に出てくる彼女は主に中世の時代に育まれたイメージを引き継いでいます。その踊りも巫女然とした気品ある舞ではなく、ロマの曲芸時見た動きです。その他宴会の様子なども時代考証がしっかりされている印象です。

派手で、華やかで、非常に混乱した事件の舞台をそのまま描きだしたような、紙吹雪をまき散らす祝祭の雰囲気すら感じる描写と最後に一人取り残されるヘロデの空虚さ。
激しい対比が味わい深い話です。

描写をわざとわかりにくくしているところが多いです。
特に混乱するのが、シリア提督が馬車でやってくるところ。
馬車には二人の要人が乗っているのですが、一人目が下りてくるところしか描写しないものだから、しばらく別の人物と誤読していました。妙に若い要人だなぁと不思議に思いつつ読んでた。
その手法については、この本最後の解説文に詳しいので、そこも併せて読むと楽しめると思います。読みにくかったら、先に解説を読んでしまうのも手かもしれない。