人の金で美術館に行きたい

美術館に行った話とか猫の話とかします。美術館に呼んでほしい。

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情報過多 アルベルト・ジャコメッティ展@国立新美術館

国立新でジャコメッティを見てきた。見たらジャコ飯が食べたかったけど外食では見つからなかった。無念。

www.tbs.co.jp

アルベルト・ジャコメッティ - Wikipedia

などと「おっジャコ!おっジャコ!」とはしゃぎながら展示を見終えたら物販コーナーに線香とかカリントウとかジャコメッtea(紅茶)とかジャ米ッティ(日本酒)とかあって、公式ふざけてるなと思った。
いや、私の頭のレベルが国立新美術館スタッフ並みにハイレベルなのかもしれない。

 

ジャコメッティは20世紀のスイス出身、フランスで活躍した彫刻家。名前からしても明らかにイタリア系。
棒切れのようなミイラのような細長い彫像で有名。知らない人はいないだろう。
初期はキュビズムシュールレアリズムをやっていたそうで、細くない彫刻も見ることができた。「コンポジション」などは表面が有機的で、まるで火の鳥復活編でレオナが有機物を奇怪な塊としか見えなくなった世界のようだ。
とはいえ、キュビスム時代は正直あまりいい作品とはいえないだろう。わざわざ性器をデザイン化してみたり、なんというか自意識のほとばしりを感じる。現代アート気取る学生がエログロで変わった自分アピールに挑戦する感じ。
そういう屁理屈こねくり回したものより、立方体に指の跡で溝を引いたような、エンジンのような塊や、鋭く尖る何かといったものの方が美しく思う。
これ。このキューブってやつがいい。

http://latetedegiacometti.tumblr.com/post/110625830666/abstracción-muerte-a-g-le-cube-1933-1934

tmblr.co

前からプリミティブアートみたいだなと思っていたけれど、「女=スプーン」という作品はアフリカの民俗芸術そのもので、豊穣=食物=多産=女、というイメージの流れが理解できる。
しかしその豊穣からはじまって拒食症のような女性像に辿り着くのだから不思議なものだなと思った。

 

「初期は」シュールレアリズムだと言ったのは、彼は自分をシュールレアリズムだと思っていないからだろうと感じたからだ。人物像がやたら小さくなったり大きくなったりするのは、彼が対象を正確に模倣しようとした結果だ。小さいものは遠くにいるから小さくなるのだ。今見えたものをそのまま再現する、それはサイズも含めての再現だ。遠近法で20cmに見えたとしたら、20cmの彫刻が出来上がるのだ。
彼が実物大の彫刻を作るとしたら、真横に立たないといけない。そして、それでは全体を見通すことなどできないだろう。
細長くなるのは、小さくなるのを防ごうと努力した結果だという。大きくしたら細くなっちゃったんだよ~なんて言われても鑑賞者も困ってしまう。際ですか、しか言えぬ。
ピカソなんかの極端に少ない線で描かれたドローイングは余分をそぎ落として要素だけにした結果だろうけれど、ジャコメッティはひたすらリアルを追求した結果だろうなぁと思う。彼の描いた絵画などを見ればわかるが、情報の取捨選択ができない人なのだろう。


逸話として面白かったのがジャコメッティが「私はこういう風に世界が見えているわけではない」と言ったそうだ。質問されまくったんだろうなぁw

 

一部作品写真撮影可能。

 

「大きな女性立像Ⅱ」 1960年

f:id:minnagi:20170619134727j:image

典型的なジャコメッティと言っていいだろう。

作品制作には非常に時間がかかり、モデルが微動だにしないよう何日も拘束したという。全部の彫刻が虚ろな目で上空を見つめているのはそのせいだろうなぁと思う。無にならなければ耐えられないのだろう。特にモデルのない記憶から作った作品でもそうなるのは、そんな魂の死んだモデルしか見てないからだと思う。

 

「歩く男Ⅰ」 1960年

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女性は立像だが男性は歩いている。ジャコメッティは影も含めていいなぁと思うから注目するといい。

 

「大きな頭部」1960年

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多分弟のディエゴ。

兄のアルベルト・ジャコメッティは髪の毛フッサフサなのに、弟ディエゴはハゲだ。

「兄弟でこんなに違うってさぁ」
「間違いない、兄のモデルを務めたストレスが原因だ」
「むしろ兄が弟の髪をむしったも同然」

などと思わず京都人と結論づける。恋人や弟はちゃんとポーズとらせた作品なのに、母親がモデルのものは本を読んでいたり作業中だったりするのも、「母ちゃんは長々ゲージュツに付き合ってくれない」のだと思う。
父親も画家だったというので、きっと芸術家なんて飽き飽きだわぁ、くらいだったのだろう。
しかし父親の作品が全く出ていないので、どんなだったのか気になる。

 

 絵画もいくつかある。スケッチやデッサン、油絵やリトグラフだ。
初期の裸婦像デッサンなどは、人体をブロックとしてとらえているのがよくわかる。漫画家、イラスト絵師がよくやるような、人体を球と長方形に分割して描くやり方だ。
そういうのを見ると、この人はやはり根っから彫刻家なのだなぁと思う。

 

「一つの顔を私に見えるとおりに彫刻し、描き、あるいはデッサンすることが、私には到底不可能だということを私は知っています。
 にもかかわらず、これこそ私試みている唯一のことなのです」

ジャコメッティの言葉だ。

 

「アネット」1956年

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特に彼は目、鼻と目のあたりにこだわっていたという。この絵を見ると本当によくわかる。
線画で見えているものをすべてその通りに描き起こすことはできないのだ。
細かいディティールを描き込めば描きこむほど、紙は真っ黒に潰れて行って何も分からなくなってしまう。

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だから絵を描くときは、どこかで作業を止めなければいけない。十分に形が取れた段階で、手を止めて後は見る者の想像力で保管させなくてはならない。顔のすべての皺、毛穴、産毛を書き込むことは紙と鉛筆には荷が重いのだ。
けれどジャコメッティはそれができない人だったのだろう。

それを見て私はアントニオ・ロペスを思い出した。

www.fashion-press.net

リアリズムにこだわるロペスはマルメロの樹に実がなっている様を描こうとするも、熟しきる前に描き上げることができずに断念してしまう。
このトイレの絵などは、トイレの床と壁を同時に視界に入れることは不可能だからという理由で上下に分断してしまっている。
普通だったら、その辺は上手くごまかして描くものなのだ。パノラマ写真のように綺麗に合成したり、うまいこと視点をずらすものなのだ。それができない彼らは不器用なのだろう。

 

「マーグ画廊」のためのポスター:「アレジア通り」1954年f:id:minnagi:20170619133523j:image

モデルが少しでも動くのをひどく嫌がったという話もある。観察し、作業中の作品に視点を移し、もう一度モデルに目をやった時、先ほどと違うものが見えるのが困るのだろう。だから彼の絵は、多重露光のような見え方になるのだろう。今見たもの、今見えたものの瞬間瞬間を重ね合わせたものが彼の絵になるのだと思う。
それでは絵画として成立しない……だから彼の絵は途中で投げ出されてしまうのだろう。

まったくもって、絵画に向いていない人である。
彫刻なら、彼はかなりリアルなものを作り上げている。

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150点という相当の数が来ているのに、会場がすかすかに見えるのが面白すぎた。作品のボリュームが小さすぎるのだw
けれど存在感はすごい。もう本当に苦悩しながら作っているのだろうなと思う。ジャコメッティの思考パターンを想像して欲しいと思う。