人の金で美術館に行きたい

美術館に行った話とか猫の話とかします。美術館に呼んでほしい。

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にけにけ

こんにちは。私、みなぎです。こっち、実家で飼ってる二毛猫のニケ!

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というわけで、一番好きな彫刻作品は?と聞かれたらノータイムでサモトラケのニケです。

今日は美術館の話じゃなくて、ふわっとしたお話です。(何事もなかったように話を進める)

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サモトラケのニケ・頑張ってフリー素材探してきた


子供のころ、初めて写真を見たときからずっと好きだ。
あの羽を力強く広げた形、はためく布の表現、正面から見たときの緊迫感、ミステリアスさ、そして何よりも清涼感。自由に羽ばたく軽やかさと力強さ。
完璧だ。
部分が欠けていること、腕や首の部分が石そのものの質感になっていることも含めて完璧だと思う。けれどもちろん、この技量で仕上げられる作者が作ったニケの頭部が美しくないわけもないと思う。
大理石像で、これほどの躍動感が、風を感じられる作品が他にあるだろうか。

 

っておもうんだけどさ、私、サモトラケのニケ実物見たことないんだよね~てへぺろ

……悲しみ。

 

てわけでね。
ニケ見たことないんですよ。普通の日本人見たことないと思うんですよ。日本に来ないもん、あんな重いもん。
ルーブル?行きてぇよ。連れてってくれよ(半ギレ)
日本にもいくつかレプリカがあるのは知ってっけどさ、それも見たことないんすよ。
で、それを見にわざわざ行くか?って言うと微妙だよね。クオリティわかんないもん。なんかのついでならいいけど。
なんか石膏で作った30cmくらいのお土産品なら見たことあるけどね、買わねーよそんなディテール潰れまくった物。

 

というわけでやっと本題として、なぜ見たこともないものが好きになれるのかという話がしたい。

芸術がなぜ芸術であるかはどこで決まるのだろうか。それは不変のものなのだろうか。
インスタグラマーが何気ない日常を撮影した時、そこにはなんだか「いい感じ」のものが映る。
スタバのカップなり今の青空なり、誰もが目にしたことのあるありふれたものを、本当に魅力的に表現できる人がいる。写真家や芸術家と言った、いわば訓練されたプロではなくともその能力を持つ人がいる。
そんな人に騙されてスタバの新商品買っちゃって、「たいしてうまくねぇな…」てなるのは別の話。

 

写真家が写真を撮ると、ありふれたものが俄然魅力を帯びる。

現実のものをただ例示するだけでなく、独自の美を付与するのが彼らの能力だ。

インスタグラムの写真に憧れてスタバのカップを買っても、そこに美は見いだせないだろう。それは全く同じものではないからではなく、写真の美しさが被写体ではなく撮影者に依存しているからだ。

 

そこで本題に戻る。

私はサモトラケのニケを見たことがない。

私はサモトラケのニケが好きだ。
果たして私はニケが好きなのだろうか?それとも、私はニケの写真が好きなのだろうか。

それはどこで判別できるのだろうか。「この人の撮ったニケはイマイチだな」と思った時だろうか。何万枚も写真を撮れば、1つくらいは失敗作もあるだろう。

実物を見た時だろうか。きっと実物も気にいるだろう。けれど実物が好きだと言うことは写真が好きなことを否定する材料にはならないだろう。

音楽でもそうかもしれない。モーツァルトが好きな人は、本当にモーツァルトが好きなのか、その演奏者が好きなのか。

古典雅楽なんか、作曲当時の演奏法と現代演奏されている方法ではテンポが全く違って全く別の曲に聞こえるほどだという。ならば雅楽愛好家は作曲者ではなく編曲者(いるとすれば)を好んでいるのだろうか。

芸術のポイントは、これを失うともう芸術ではなくなってしまう何かは存在するのだろうか。するならば何だろうか。しないならば、なぜそれは芸術なのだろうか。

 

実物見たいな。